道成寺の七不思議

道成寺は、いくつもの不思議な魅力をたたえた寺です。1300年以上の時を経るうちに生まれた不思議の数々を、そこにこめられた仏法と歴史のメッセージと共に、新たに「道成寺の七不思議」としてまとめました。境内の七カ所に説明の看板も設置しています。お参りにいらっしゃったら、ぜひ七つの場所をお巡りください。お申し込みがあれば、境内を一周しながら説明もしています。また、このページをご参考に「語り部」になって、お知り合いの方々を御案内いただければと思います。

一、石段の不思議

台形の石段

道成寺の正面には、62段の石段があります。この石段は、昔から「のぼりやすく、おりやすい」と言われます。そんな石段は無いですよね。どんな階段も登る時はきついものです。

ただ、実際にこの石段を歩くと、そんな感じもしますので、旧国鉄の技術者が測量に来たこともあるそうです。駅の階段の設計の参考になるかと考えたのでしょう。しかし、まったくお役に立てなかったと思います。この石段には秘密があって、左右の土手が平行でなく、逆ハの字に開いています。石段自体は平行ですが、その左右の斜面が上は広く、下がせまく、全体として台形の石段になっています。

道成寺 山門

遠近法の庭

遠近法や、その逆利用は、日本庭園でもごくまれに使われることがあります。
有名な例で言えば、龍安寺石庭や桂離宮で使われているそうです。ひいき目かも知れませんが、龍安寺も桂も、この石段ほどの視覚効果は出せていないように思われます。いずれにせよ、日本を代表する名園と肩を並べる程のこだわりをもって作られた石段なのです。

遠近法の庭

乱拍子の石段

この石段は、能楽の『道成寺』、歌舞伎の『京鹿子娘道成寺』、日本舞踊の『紀州道成寺』等にある「乱拍子」というシーンのもとになったことでも知られています。乱拍子とは、足で拍子をとりながら舞うことです。

清姫、あるいは清姫の亡霊が、安珍を捜し求めながらこの石段を登る、という意味がこめられていると言われます。つま先だけを左右に動かす所作もあり、安珍を探しているのだそうです。舞台を控えた舞踊家が、この石段を実際に歩きにいらっしゃることが時々あります。「石段を思い浮かべながら舞った」という方もおられます。

清姫の乱拍子

おもてなしの心

この石段が台形になったのはいつのことでしょうか?
道成寺が出来た奈良時代かも知れませんが、一番控え目に、つまり遅い時期に考えれば、延宝五年(1677)に石段が改修されていますので、この時かも知れません。この頃には、南蛮貿易を通して西洋絵画の遠近法は既に伝わっていましたので、それを庭に利用しても不思議なことではありません。もしそうだとしても、この時の石工さんは、南蛮渡来の技術を知っているぞと自慢したかったのではないでしょう。遠くから歩いていらっしゃった方々が、最後の一歩が少しでも軽やかに登れるように、そして、降りる時には長く美しい石段に見えるように、という石工さんのおもてなしの心が台形の石段に込められているのだと思います。

他人の知らないところで、気を配ってあげたり、汗をかいてあげたりして、物事がスムーズに運ぶようにする。そのことを自分から言う必要は無く、誰かに知って貰う必要もない・・・

この石段が台形になっていることは、住職はじめ誰も気づいていませんでした。平成15年に石段の前の道がアスファルトから石畳に舗装しなおされた時、工事関係者が気づいてくれました。今後は、昔の人々の工夫を語り継ぐと共に、われわれもささやかな善行を見えない所で積み重ねて行きたいものです。

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二、仁王門の不思議

直線の配置

本堂と、その中央にまつられている千手観音様と、仁王門の開口部、石段、参道が一直線に配置されています。現在の本堂は、奈良時代の講堂に代わって南北朝時代に建て替えられた二代目のお堂ですが、その位置も、千手観音様の高さもほぼ変わっていませんので、千手観音様は、参道を1300年近く見つめて来られたことになります。

直線の配置
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三、三重塔の不思議

切られた御神木

道成寺の三重の塔は、元禄十三年(1763)に再建されました。未調査ですが、基壇の下に奈良時代の三重塔の遺構が残っていると推定されています。現在の塔が道成寺にとって何代目の塔になるか不明です。たまに台風が上陸する土地柄ですし、戦国時代には「塔は無く、礎石ばかりなり」と記されています。やがて、江戸時代に入って世情も安定し、本堂、仁王門と修理が進み、いよいよ三重塔が再建されることになりましたが、心柱に使える良材が見つからなかったようです。あちこち探すと、道成寺から20キロほど離れた所に妙見神社(みょうけんじんじゃ)があり、その御神木のヒノキなら使えそうだ、ということになりました。時の住職は覚悟を決め、妙見神社に行き、神社を守っている山中源右衛門さんという人に頼みました。「この生きている御神木を切らせて下さい。道成寺の三重塔の再建に使います。」と。
源右衛門さんは、ひとこと「差し上ぐべく候」と仰ってくれました。御神木は切り倒され、運べないので更に半分に切られ、道成寺へ運ばれ、三重塔が再建されました。

木は、材木になると、生きている年数以上の寿命を得るそうです。樹齢100年の木なら柱や梁として100年以上、法隆寺三重塔のように1400年近くたっている塔には、樹齢1400年クラスの木が使われているのでしょう。道成寺の三重の塔の心柱の長さは約20m。ヒノキの白木の部分を取り去り、茶色い芯だけを使っていますので、相当太いヒノキであったことが分かります。

御神木と、妙見神社の方々には、お礼の言いようもありません。
三重塔を末永く護り、切られた御神木に2倍、3倍の寿命を得ていただくしかないのでしょう。道成寺にとっては、塔を再建できただけでなく、「御神木を懐に抱く塔」になったわけです。
文字通り、神様と仏様のお導きを示す塔となりました。

三重塔

ノミで死んだ棟梁

この塔には特徴があり、一、二階の屋根は平行垂木(へいこうだるき)で、三階は扇垂木(おうぎだるき)で支えられています。平行垂木は一般的な工法で、扇垂木は美しい反面、一本一本の垂木の形が違う、複雑な工法です。

これについて、不思議な民話が残っています。

三重塔を再建していた棟梁さんが、二階まで組み上げて、下に降りて休憩していたそうです。すると、一人の巡礼が通りかかり、話しかけました。
「棟梁や、扇垂木って知ってるか?もっと美しい塔にできる方法があるぞ」棟梁は、巡礼の言う通りに三階を扇垂木にしてみると、見映えが一層良くなりました。「ああ、一階も二階も扇垂木こうしとけば良かった。わしも素人に教わるようでは…」と後悔して、完成後に、三階から鋭いノミを口にくわえて飛び降り自殺をしてしいました。

いくつかの本にも載っている民話で、話としては面白いのですが、そんな事実はありません。おそらく、晩酌が過ぎて「飲み」で命を落としたのでしょう。

一、二階の平行垂木 三階の扇垂木
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四、鐘楼の位置

入相桜(いりあいざくら)

道成寺では、昭和50年代に境内の発掘調査が行われ、法隆寺を左右逆にした伽藍配置であったことがわかりました。とすれば、法隆寺に今も残る鐘楼の位置を、左右逆にして道成寺にあてはめると、道成寺の初代鐘楼の場所が推定できることになります。そうして割り出された場所には、入相桜(いりあいざくら)という桜の植え込みがありました。この桜は、江戸時代の「紀伊国名所図絵」にも出てくる大木で、三十三本の支柱で支えられ、六間(約10メートル)離れた本堂の縁側まで枝が届き、縁側から桜を和歌に詠んで、短冊を枝につるせた、と記されています。
安珍清姫伝説にちなむ文楽が作られた時、この桜にちなんで「日高川入相花王」(ひだかがわいりあいざくら)と名付けられるほど、江戸時代には有名な大木でした。古今和歌集に能因法師の和歌があります。

紀伊名所図会 入相桜

山里の 春の夕暮れ 来て見れば 入相の鐘に 花ぞ散りける

お寺の鐘は、日の出と日没のころに六つずつ打つことが多いようです。このうち夕方の鐘は、日の入り合い時に打たれるので「入相の鐘」(いりあいのかね)と呼ばれます。
道成寺では、いつの時代か釣鐘がなくなり、鐘楼の跡を踏み荒らさないように桜が一本植えられたのではないでしょうか。夕方になり、「ああ、本当なら入相の鐘を打たねばならないのに」と思いながら見上げるうちに、その桜はいつしか入相桜とよばれるようになったのではないでしょうか。

入相桜

事件の現場?

入相桜は和歌山県の天然記念物に指定されていましたが、大正年間に台風で幹が折れ、指定は解除されました。幹は折れたものの、根本から別の芽が出て、今では再び大木の桜となって枝を広げています。この植え込みは発掘調査されませんでしたが、その周囲からは、何と焼けた土が見つかりました。道成寺の初代鐘楼で、やはり平安人を驚かすような放火無理心中があったのでしょうか?それとも、単なるたき火の跡?

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五、御開帳と秘仏

道成寺の本堂の北側には、秘仏の千手観音様が一体まつられていて、三十三年に一度、春三十三日間だけ公開される行事、すなわち御開帳(ごかいちょう)が行われます。御開帳は、平成17年(2005)に行われたばかりで、次は平成50年(2038)になります。

秘仏とは、もったいぶって隠している仏様ではありません。
われわれの人生では、大事な人と離ればなれになることがしばしばおきますが、離れたからと言っても心の絆が消えるわけではありません。秘仏とは、先に見送った親のように、会えないけれど強く導いて下さる仏様。たとえ顔は見られなくとも、その寂しさを理解して下さり、心の絆を深めて下さる仏様なのです。

この秘仏の御開帳に、かけがえのない大切な人と参ると、次の御開帳にも一緒にお参りできる、と言われます。「一緒」というのは、手をつなぎながら、顔を見合わせながら、という物理的な意味ではありません。
万一、自分がこの世にいないとしても、それは自分が秘仏と同じ側、扉の内側から大切な人を見守る役に回った、ということなのでしょう。

平成17年の御開帳にお参りできなかった方は、是非、あなたの大切な方に御開帳のことをお話し下さい。「道成寺には秘仏があるんだって。次の御開帳は平成50年なんだけど、一緒に行けたらいいね」と。そうお伝えいただくだけで、秘仏様が、あなたとその方との心の絆を深めて下さることでしょう。・・・あんまり何人にも言わない方がいいですよ。

千手観音像
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六、娘道成寺の人気

安珍と清姫の伝説に基づく古典芸能を「道成寺物」といい、日本各地の舞台で年間100公演以上が演じられていいます。
中でも「娘道成寺」の人気は高く、日本の舞踊の最高傑作と言われています。もちろん、娘道成寺より格上とされる曲もたくさんあります。しかし、歌舞伎座の閉場式の最後の曲にも娘道成寺が選ばれるなど、大切な節目に必ず演じられる人気曲になっています。

では、なぜそんなに娘道成寺は人気があるのでしょうか?それは、きっと、千手観音様の手が見えないところで働いているのでしょう。

千手観音様は、われわれを、手を変え、品を変え、救って下さる仏様。
安珍と清姫の伝説も、絵巻も、娘道成寺などの道成寺物も、その御手の一つなのでしょう。
我々の悩みは複雑で、御経には出てこないものもあります。
娘道成寺には御経の言葉がたくさんちりばめられていて、舞台に見とれているうちに、おのずと御経の言葉が身にしみ込むようにできています。

道成寺物を見ることは、仏様に手を合わせるのと同じ功徳道成寺物を演ずることは、仏様に御経をあげるのと同じ功徳

娘道成寺という舞踊の名作は、千手観音が我々に差し伸べている御手の一つなのでしょう。

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七、無き鐘ひびく道成寺

二つの鐘を失った寺

道成寺の初代の鐘は、平安時代に安珍と清姫の事件で焼かれたと言われます。二代目の鐘は、天正13年(1585)の雑賀攻めの時に持ち去られ、その二年後に京都の妙満寺に奉納されました。以来、道成寺には釣鐘はありません。「三代目を作ったら」と言って下さる方もおられますが、三代目を作ると二代目を大事にしていないことになるでしょう。寂しくなったら、妙満寺へ行けばいつでもお参りできるのですから。

道成寺縁起での初代釣鐘 妙満寺に奉納された二代目釣鐘

道成寺縁起での初代釣鐘

妙満寺に奉納された二代目釣鐘

心にひびく鐘

むしろ、二代目の鐘は、妙満寺に落ち着いた後、自らの運命を悟ったのだと思います。絵巻物や能楽で有名になったために紀州から持ち去られましたが、新たな安住の地となった京都は、能楽をはじめ室町文化の華が開いた都、数年後には出雲の阿国が歌舞伎踊りをはじめることになる都でした。

名鐘は一里四方に響き渡ると言われます。道成寺の二つの鐘も一里近く、おそらく道成寺から日高川の向こう岸まで響き渡っていたでしょう。道成寺で鐘の音を耳にすることは、もはや有りません。
初代の鐘は絵巻物の中で、二代目の鐘は「道成寺物」の舞台で、その名を轟かせる道を選んだのでしょう。

道成寺の二つの鐘は、耳にではなく、心に響く鐘となりました。

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